2007-05-01から1ヶ月間の記事一覧

ロラン・バルト

「作家とは彼のパロールに加工する(たとえ霊感を受けた場合でも)者であり、職分としてこの加工の仕事に自らを傾注する者である。(略)それは、裁量に服することのない実践の目の眩むようなスペクタクルを提示することによって、世界を揺さぶることのでき…

ロラン・バルト

「今日では誰でもが、多かれ少なかれ公然と、作家たらんという要請と著述家たらんという要請の間で二股膏薬をかけている。(略)そして、このような葛藤(なんなら、このような契約、と言ってもいいが)は言語活動のレベルで成立するものである、と言っても…

エドワード・タイラー

「人類は“おそらく”生物から無生物に至るまで、万物は人間と同様に生きて活動していると考えたであろう」「アニミズムから多神教へ、多神教から一神教へ進化する」 エドワード・タイラー『原始文化』

和辻哲郎

「人間とは『世の中』であると共にその世の中に於ける『人』である。だからそれは単なる『人』でないと共にまた単なる『社会』でもない。ここに人間の二重性格の弁証法的統一が見られる」とする和辻の人間学は、「社会」すなわちコミュニケーション的関係性…

カント

カントはこう述べる 「スヴェーデンボリの思想は崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である、と彼は述べている」(K・ ぺーリツ編『カントの形而上学講義』から) 晩年は老衰による身…

モーリス・メルロ=ポンティ

「画家は自らの身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える。この化体を理解するためには、働いている現実の身体、つまり空間の一切れであったりする機能の束であったりするのではなく、視覚と運動の縒糸であるような身体をとりもどさなくてはならない…

ジークムント・フロイト

「《自我は、知覚・意識系の仲介のもとで外界の直接の影響によって変化するエスの部分》である一方で、《理性とか分別とかと呼ばれるものを代表して、さまざまな情念を含むエスと対立している》。自我のエスに対する 関係は《手に負えない力をもつ馬を制御す…

ポール・ド・マン

「なるほどヨーロッパ文明は随所にユダヤ系の痕跡を残してきたものの、その根源性だけは無事だったために、本質的意味においては無傷のままであった。ユダヤ問題解決のためには、どこかヨーロッパから離れたところにユダヤ人植民地を造ればよい。西欧文学全…

日本の歴史が今こんな形になつて皆が

「日本の歴史が今こんな形になつて皆が大変心配している。そういう時,果たして日本は正義の戦いをしているかといい様な考えを抱く者は歴史について何事も知らぬ人であります。歴史を審判する歴史から離れた正義とは一体何ですか。空想の生んだ鬼であります。…

マルクスはその統一を生きたのだ。

「マルクスは理論と実践とが弁証法的統一のもとにあるなどとは説きはしない。その統一を生きたのだ。マルクスのもった理論は真実な大人のもつた理論だ。」 小林秀雄「マルクスの悟達」

脳細胞から意識を引き出す唯物論も、

「脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論も等しく否定したマルクスの唯物史観に於ける「物」とは、飄々たる精神ではない事は勿論だが、又固定した物質でもない。」 小林秀雄「様々なる意匠」

吾々にとって幸福な亊か不幸な亊か知らないが,

「吾々にとって幸福な亊か不幸な亊か知らないが,世に一つとして簡単に解決する問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々の思索の唯一の武器は,依然として昔乍らの魔術を止めない。(中略)而も、若し、言葉がその人心幻惑の魔術を捨て…

明らかに、小林秀雄は、マルクスの言う商品が、

「明らかに、小林秀雄は、マルクスの言う商品が、物でも観念でもなく、いわば言葉て゜あること、しかもそれらの「魔力」をとってしまえば,物や観念すなわち「影」しかみあたらないことを語っている。この省察は、今日においても光っている。それは、『資本論…

ジェラール・ジュネット

「テクスト、それはあのメビウスの環である。そこでは、内側の面と外側の面、記号表現の面と記号内容の面、エクリチュールの面とレクチュールの面が、休みなく回転し交替する。そこでは、エクリチュールが絶えず自らを読み、レクチュールが絶えず自らを書き…

テクストは、常に、すでに読まれたものとして

「テクストは、常に、すでに読まれたものとして我々の前に現れる;我々は、テクストを以前の理解の沈殿層を介して理解するか、 −もし、テクストが真新しいものならば− 沈殿している読む習慣と、継承された理解の伝統によって育まれた範疇を介して、理解する…

ジル・ドゥルーズ

「意識はけっして自己[ソワ]の意識ではなく、意識的でない自己に対する自我[モワ]の意識である。それは主人の意識ではなく、主人に対する奴隷の意識であって、主人は意識的である必要がない」 ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』p.65

木村敏

「横に拡(ひろ)げれば自分と他人の〈あいだ〉になり、縦に折り畳めば自分と自分の〈あいだ〉になるような〈あいだ〉、それが自己という現象を成立させている」 木村敏

記号の形態は、まず第一に、

「記号の形態は、まず第一に、人々の社会的組織や、人々が相互に作用しあう際の身近な条件によって規定されている。」 ミハイル・バフチン

そこでは内部に書かれたある言語が別の言語を

「そこでは内部に書かれたある言語が別の言語を相対化し、脱ー中心化する。言説のひとつの形式が別の形式を侵犯し、潰乱し、引用し、枠に入れ、パロディ化し、撤退させるのである」 イーグルトン「ヴィトゲンシュタインの友人たち」室井尚訳、『現代思想』19…

言語は、その歴史的存在のいかなる瞬間においても、多言語的

「言語は、その歴史的存在のいかなる瞬間においても、多言語的である。それは過去と現在との、過去のさまざまな時代間の、現在のさまざまな社会・イデオロギー集団間の、さまざまな思想、流派、グループ間の、社会的・イデオロギー的矛盾の共存が具体的にあ…

ジェラール・ジュネット

「あらゆる書物、あらゆるページが、それなりのかたちで読書の視線の下に展開され完成される、言語空間の詩である。あらゆる文学作品ないし文学作品のあらゆる部分を、まずテクストとして考えるという決断、すなわちページや巻という逆説的な場の中で、書き…

テキストというものは、情況、時間、場所、そして社会などの中に絡め取られている

「重要な点は、テキストというものは、このうえなく純化された形を帯びている場合ですら、つねに情況、時間、場所、そして社会などの中に絡め取られているということ、要するにテキストというものは世界無い存在であり、したがって世界内的情況に関わるもの…

テキストには中心点もなければ中心軌道もない。

「テキストには中心点もなければ中心軌道もない。それは空間的・時間的な物体とは異なる。その〈声〉は物語るペルソナというよりも、むしろいたずら書きのペンのようである。作家の視点からすれば、テキストはページの上のインク、紙の折り目、マラルメの言…

意識的あるいは無意識的に、その間テクスト性において、

「私は、諸作品がその差異、その偏差(間テクスト性のような)において考察された場合の、諸作品の形作る空間と、生産者および、雑誌、出版社、等々の生産の制度・機関が形作る空間の間には、かなり厳密な対応関係、一種の騒動関係が存在すると、みています…

題目、最初の出だし、最終行のかなたに、

「題目、最初の出だし、最終行のかなたに、またその内部構成やその自立的形体を越えて、他の本、他のテクスト、他の文章を参照するシステムの中で、それは捉えられる:それは、ネットワークの節(ノード)である‥‥。本は、自由になる客体ではない‥‥。その個…

文学作品は、全て“書き直されている”

「文学作品は、全て‥‥無意識の内に、それらを読んだ社会によって“書き直されている”」 テリー・イーグルトン1983,12

相互テクスト性という用語は、

「相互テクスト性という用語は、ある(ないしいくつかの)記号体系からもう一つの記号体系への転移を表す。しかしこの用語が往々にして、あるテクストの「典拠の研究」というありきたりの意味に受け取られてきたことを考えると、われわれはそれに替えて転移=…

ある記号体系からもう一つの記号体系への移行

「ある記号体系からもう一つの記号体系への移行である。この移行が行われるときに力点移動と圧縮がそこに結びつくからといって、それだけが操作の全体だということにはならない。その上に定立をもたらす措定の変形がつけ加えられる。古い措定が破壊され、も…

テクストの最小単位としての言葉のあり方は、

「このように、テクストの最小単位としての言葉のあり方は、構造モデルを文化的(歴史的)環境に結びつける媒介項であると同時に、通時態を共時態(文学構造)に変換する調整項でもあることがわかる。このあり方という観念自体によって、言葉に広がりが生じ…

どのようなテクストも様々な引用のモザイクとして形成され、

「すなわち、どのようなテクストも様々な引用のモザイクとして形成され、テクストはすべて、もう一つの別なテクストの吸収と変形に他ならないという発見である。相互主体性という考え方に代わって、相互テクスト性という考え方が定着する。そして詩的言語は…