柄谷行人

日本の革命も、孤立した事例ではない。

「明治維新は一八六八年ですが、 これは、一八六五年のアメリカ南北戦争における国家統一、 一八七一年の普仏戦争におけるプロイセン国家の勝利、 その他七○年代のイタリア国家統一などと並行している。 一八七○年前後は世界史的な転換期です。 フランスもこ…

柳田の書き方はアレゴリカルですよ。

「柄谷 …彼と柳田の「神」は違う。折口はそれを自覚していた。柳田の神は、そのへんの小さな神社の神様、つまり先祖神なんですよ。三浦 柳田のほうがアレゴリカルで、折口のほうがシンボリカルなんだね。だから折口のほうが日本的なものに対応していくわけだ…

『資本論』を経済学の書としてしか見なしていない

「経済学部の学生として 『資本論』を精密に読んだため、 私は、 ルカーチから アルチュセールにいたる マルクス主義哲学者が、 事実上それを読んでおらず、 ただ それを彼らの哲学的関心に 還元しているだけだ ということに不満であった。 と同時に、 経済…

精神分析とは、それ自体“読む”こと

「…精神分析とは、 それ自体“読む”ことであり、 むしろ精神分析こそ文学批評に 属しているというべきである。 さらにまた、 フロイトのテクストを“読む”ことは けっして容易ではない。 フロイトのテクストのなかに、 反フロイディズムをさえ読むこと、 それ…

「差異」のみが歴史性の根拠である。

「私が明確にしたいと思うのは、 さまざまな作品が 相補的に助け合い 戦後文学を構成しているとか、 すべてダメだという、 いかがわしい 共時性や党派性ではなく、 それらの差異 であり関係である。 「差異」のみが 歴史性の根拠である。」柄谷行人 「方法を…

ヘーゲルはナポレオンによって歴史は終わったといった。柄谷

「ヘーゲルはナポレオンによって歴史は終わったといった。それはブルジョア革命が達成されたのちに、もはや歴史を歴史たらしめる闘争がなく、情熱がないということを意味する。いうまでもなく、ヘーゲルはまちがっていた。」 柄谷行人「歴史の終焉について」…

『論』は、唯一の本である。

「『<近代の超克>論』は、廣松渉が日本の哲学および批評にかんして書いた、私の知るかぎり唯一の本である。」 柄谷行人「近代の超克について−廣松渉」

カントは 宗教を回復しようとし

「…カントは宗教を回復しようとしたのではない。彼が証人するのは道徳的であるかぎりでの、また道徳的たらんとすることへの勇気を与えるものであるかぎりの宗教である。」 柄谷行人「序文」『トランスクリティーク』批評空間社 2001 p.13

明らかに、小林秀雄は、マルクスの言う商品が、

「明らかに、小林秀雄は、マルクスの言う商品が、物でも観念でもなく、いわば言葉て゜あること、しかもそれらの「魔力」をとってしまえば,物や観念すなわち「影」しかみあたらないことを語っている。この省察は、今日においても光っている。それは、『資本論…

柄谷行人

「柳田は民俗学を「内省の学問」だといったが、同様に、それは共同体のなかでの「内省」でしかない。…天皇制を相対化すると称して、それ以前の多元的状態に遡行しようとする、…ある者は文字通り「南島」に向かい(吉本隆明)、ある者は縄文文化やアイヌ(梅原猛…

柄谷行人

「村井紀は、 柳田が官僚として韓国併合に深く関与したこと、 したがって、彼の学問において朝鮮を無視し 抑圧しなければならなかったことを指摘している(「季刊思潮」7号)。 柳田は、そのかわりに「南島」に向かったのである。 …「日本民俗学」そのものが、…

柄谷行人

「人類学者はそこにすみこんで観察することはできるが、そこで生きることはできない。もしできたとしても、そのとき彼は人類学者ではない。…それは単純な錯覚にもとづいているのであって、たとえば狂気の思考の「独創性」にのみ注意をむけて、その「世界」の…