2013-01-01から1年間の記事一覧

ある蘇生術をほどこさねばならぬものは、すでに死滅したものである

「古典を現代のものとするためには、ある蘇生術をほどこさねばならぬといふやうな考え方は間違いである。又ある蘇生術をほどこさねばならぬものは、すでに死滅したものである。さうして死滅したものは古典でない。再評価とは忘れられている形を人々の注意に…

奈良は日本の故郷である

「奈良は日本の故郷である。最も古い歴史の形である。ここだけは永久に日本の古さに止めたいと、私は思ふ。それは消極の方針でなく、限りない誇りを持つた積極である。保守には勇猛の自信が必要である。」保田與重郎「ふるさとの大和」 『保田與重郎全集第四…

懐疑は、恐らくは叡智の始めかも…

「懐疑は、恐らくは叡智の始めかもしれない、然し、叡智の始まる処に芸術は終わるのだ。」アンドレ・ジイド 「公衆の重要性」『続プレテクスト』

土地が血統である。國土が血すぢである。

「土地が血統である。國土が血すぢである。土地の観念がなくして萬代の血すぢはないのである。私は萬葉の土地歌枕を語るだけで血すぢにつたはるやうな感動を味はふのである。こんにちは無位無冠のしがない一人の民にすぎない我々は、同じき我々の父祖と共に…

日本の軍人の無降伏主義そのものさえ、近時の軍人の考え方

「著者が大きい問題として取り上げている日本の軍人の無降伏主義そのものさえ、近時の軍人の考え方であって、日本人の伝統的な考え方ではありません。降服ということは恥辱と見られたに相違ないが、しかし最近におけるようなヒステリックな考え方は昔の武士…

著者は反対のデータを細心にさがし回るという努力をほとんどしていない

石田英一郎に書評を勧められた和辻がそれを断るために書いた 「しかしわれわれは、外国人の日本研究に付随するこの種の難点に対しては、寛容な態度をもって接するという習慣を持っているのです。それよりもむしろ、間違いのないデータを並べている場合でも、…

日本的ということが、ひ弱くはかないものの代名とされていた

「本日日本的なものといふことが非常に多くの人々によつて云われている。ところでこういう言葉や東洋的ということばは概してヨーロッパ的な考え方から出てくるものとおもわれる。むしろこの反対に我国でヨーロッパ的といわれているものに、僕らは日本的なこ…

日本の文化と藝文の思想はつねに開花であつた。

「日本の文化と藝文の思想はつねに開花であつた。花の思想−が天平より元禄の上方文人の頃までは、一つの系譜として発見される。月花の弄びではなく、観月であり、開花であつた。我々の思想では藝文は開花であり、魔術であり、奇跡であつた。日本の花の思想に…

伝統の美学なるものからあざむかれ、敗戦によって一挙にほうりだされた

「わたしはかつて戦争期に、天皇(制)から、神話から、伝統の美学なるものからあざむかれ、敗戦によって一挙にほうりだされた体験をもった。しかし、このあざむかれかたには一定の根拠がなかったわけではない。その根拠のひとつは、天皇(制)が共同祭儀の司祭…

作品にならない言葉を、酒の酔いや幻覚など一切かりずに綴りつづける

「批評のいちばんの悩み、口にするのが恥かしいためひそかに握りしめている悩みは、作品になることを永久に禁じられていることだ。(略)作品には骨格や脊髄とおなじように肉体や雰囲気がいるのに、作品を論じながらじぶんを作品にしてしまうのは、それ自体…

アジアは光(薄明と闇のゆえに存在する)と魂をもつていた

「近代のものなるヨーロッパは理知と精神をもち、アメリカは物質と実用をもち、アジアは光(薄明と闇のゆえに存在する)と魂をもつていた。ヨーロッパに於いては動物と人間との交流と区別が説かれ、アメリカに於て機械と群衆との交錯がとかれるやうに、アジ…

真淵のやうに、芭蕉のやうに、定家のやうに、後鳥羽院に於けるやうに

「日本の古典は僕らが語るごとくに露骨に語るものでない、真淵のやうに、芭蕉のやうに、定家のやうに、後鳥羽院に於けるやうに、ひそかに心から心に通わせるものである。」保田與重郎 「方法と決意」 『保田與重郎全集第四巻』講談社 p.58

なんだ、偉そうに股を開いて、ーこつちは窮屈で困つてゐるのだ

「(なんだ、偉そうに股を開いて、ーこつちは窮屈で困つてゐるのだ。もう少し遠慮したらどんなものか。)腹立ちを言葉にすると、さうなる。それが軈て、かうなつてきた。(なんだ、この土人め、土人の癖して偉さうに股を開いて、ー土人らしく、日本人に対し…

日本と云うものは、つねに「世界文化のための」というまえおきを書くことを強いられている

「東洋的とか、一般に東洋といふ事が何ら我々の間でも世界歴史の観点からは鮮明にされていない。それは日本といつてもいい、その日本が現代には大方鮮明にされていないのである。東洋の遠征とか、東洋の求道とか、東洋の生理とか、東洋の交通路とか、一般に…

日本的なものといふこと

「本日日本的なものといふことが非常に多くの人々によつて云はれてゐる。ところでかういふ言葉や東洋的といふことばは概してヨーロッパ的な考へ方から出てくるものと思はれる。むしろこの反対に我国でヨーロッパ的といはれてゐるものに、僕らは日本的なこと…

そして道の終りに橋を作つた

「まことに羅馬人は、むしろ築造橋の延長としての道をもつてゐた。彼らは荒野の中に道を作つた人々とであつたが、日本の旅人は山野の道を歩いた。道を自然の中のものとした。そして道の終りに橋を作つた。はしは道の終りでもあつた。しかし日本の言葉で、は…

ただそれが道の延長であるといふ抽象的意味

「東洋の橋が、殊に貧弱な日本の橋も、ただそれが道の延長であるといふ抽象的意味でだけ救はれてゐる。羅馬人の橋はまことに殿堂を平面化した建築の延長であつた。思へば日本の古寺社の建築が今日のことばで建築で呼ぶさへ、僕は何かあはれまれるのである。…

大衆が恐れることをやめる時

「大衆(ムルティテュード)が恐れることをやめる時、それは恐ろしいものと化す。」ベネディクト・スピノザ

いちばん非科学的な物の見方が詩である。不可能が可能に見えるのが詩なのだ。

「僕は「文學界」九月号の座談会で、詩は滅びるということをいった。それについて、詩人たちが抗議しないのは怪しからんといって慣慨している人もあるし、詩が滅びるのなら、小説も滅びるわけではないかという人もあるので、ちょっと僕の考えをここで説明し…

人柄とか社会的地位の優位を利用して正当な論理を圧倒し、これを逆にしていへば人柄や地位の優位に論理の役目を果させる

「私は一家言といふものを好まない。元来一家言は論理性の欠如をその特質とする。即ち人柄とか社会的地位の優位を利用して正当な論理を圧倒し、これを逆にしていへば人柄や地位の優位に論理の役目を果させるのである。」坂口安吾 「一家言を排す」

敗戦の時に当然、「日本」という国名を変えようという主張が出てきてもおかしくはなかった

「私が「日本」という名前にこだわったのも、誰も意識してこなかったと思ったからです。敗戦の時に当然、「日本」という国名を変えようという主張が出てきてもおかしくはなかったのです。たしかに天皇制反対は共産党が主張していましたが、「日本」という国…

超自我が苦境におかれた無力な自我に「そんなことは何でもないよ」と励ますもの

「自律的能動性は、『快感原則の彼岸』では、外出した母親に置き去りにされた幼児が母親の不在という苦痛を反復的に再現して遊びに変えてしまう例においても示されている。この例はすでに自律的な超自我の働きを暗示するものだ。しかし、超自我のこうした性…

文字は殺しますが、霊は生かします。

「わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文…

ああ、青い空、だが、

「ああ、青い空、だが、お前はその希ひの正確な発音を何処から借りて来た」小林秀雄 「眠られぬ夜」

ライフは考へるライフよりも見るライフである。

「ライフは考へるライフよりも見るライフである。聞くライフである。見る処から、聞くところから、いろいろな現象が、その意味を豊富にして行つた。眼さへあれば好い。眼がつぶれたら、耳さへあれば好い。耳も聞えなくなつたら、触つてゞもライフが知りたい…

低俗であつても、結果に於て最も低俗ならざる深さ高さ大いさに達することができる

「蛇足ながら最後に一言つけ加へておくと、私は「真実らしさ」の「らしさ」に最も多くの期待をつなぐものであつて、それ自体として真実である世界は、それがすでに一つの停止であり終りであることからも、興味がもてない。「らしさ」はあらゆる可能であり、…

読者と協力して、共々言外のところに新らたな意味を感じ当てたい

「私は文章を書いてゐて、断定的な言ひ方をするのが甚だ気がかりの場合が多い。心理の説明なぞの場合が殊に然うで、断定的に言ひきつてしまふと、忽ち真実を掴み損ねたやうな疑ひに落ちこんでしまふ。そこで私は、彼はかう考へた、と書くかはりに、かう考へ…

自然の心にささやく悲哀もまた歌うべきであろう

「少年の歓喜が詩であるならば、少年の悲哀もまた詩である。自然の心に宿る歓喜にしてもし歌うべくんば、自然の心にささやく悲哀もまた歌うべきであろう。 」 「少年の悲哀」 国木田独歩

中味がなにも無い時期

「まだ遊び自体が生活なのだという自在さも持てず、兄や姉に遊びに引きまわされもせず、日頃いそがしそうに動きまわっている母親も稀に針つくろいをしている。この稀な年齢と時間がわたしには「軒遊び」に当たるような気がする。生涯のうちこんな時が無かっ…

哲学すること…

「哲学することは、死を学ぶことである」 モンテーニュ 『エセー』1・20の題名