ドイツ批評

『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』より引用

「虚栄心は 他人を 鏡 として使用し、 利己心は 他人を 道具 として使用する。」フェルディナント・テンニエス 『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』フェルディナント・テンニエスって? ブログ内検索Amazon最安値でセンスの光る古本屋【ふぃでりお書店】を…

愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすこと

「愛するということは、 なんの保証もないのに 行動を起こすことであり、 こちらが愛せば きっと相手の心にも 愛が生まれるだろうという希望に、 全面的に 自分をゆだねることである。」エーリッヒ・フロム 『愛するということ』Amazon最安値でセンスの光る…

農夫は畑に種をまかない。

「この世を動かす力は 希望である。 やがて 成長して 果実が得られる という希望がなければ、 農夫は 畑に種を まかない。」M.ルターAmazon最安値でセンスの光る古本屋【ふぃでりお書店】を出店中です。【 概念・時間・言説―ヘーゲル“知の体系”改訂の試み (…

この世を動かす力は希望である。ルター

「この世を動かす力は希望である。 やがて成長して 果実が得られるという希望がなければ、 農夫は畑に種をまかない。」マルティン・ルターAmazon最安値でセンスの光る古本屋【ふぃでりお書店】を出店中です。【 概念・時間・言説―ヘーゲル“知の体系”改訂の試…

マルティン・ルター

「希望は強い勇気であり、 あらたな意志である。」マルティン・ルターAmazon最安値でセンスの光る古本屋【ふぃでりお書店】を出店中です。【 概念・時間・言説―ヘーゲル“知の体系”改訂の試み (叢書・ウニベルシタス) (単行本)アレクサンドル コジェーヴ (著)…

晩年の作品とは、カタストロフィ

「芸術の 歴史において、 晩年の作品とは、 カタストロフィ である」テオドール・アドルノAmazon最安値でセンスの光る古本屋【ふぃでりお書店】を出店中です。【 概念・時間・言説―ヘーゲル“知の体系”改訂の試み (叢書・ウニベルシタス) (単行本)アレクサン…

一つの神を選ぶことは、他の神々を侮辱すること

「神々は 窮極的なもので、 その正当性を 理性によって 定めることはできず、 ただ非合理な帰依のみが 可能である。 人が 一つの神を選ぶことは、 他の神々を 侮辱することであり、 それらを 悪魔とすること である。」 マックス・ヴェーバーAmazon最安値で…

「活動」の本質は自由であるとのべた。

「アレントは前作 『人間の条件』において、 人間生活のあり方を 「活動」「仕事」「労働」の 三つに分類し、 それぞれについて批評した。 そのなかで彼女は、 「物あるいは事柄の介入なしに 直接人と人との間で行われる 唯一の活動力」としての 「活動」を…

私たちはガダマーの哲学の歩みを紹介しようとした

「…私たちは これらを一冊に纏めて、 そこにガダマーの哲学の 歩みを紹介しようとした。 いずれにせよこうした諸論文の 核を成すものは 『真理と方法』であったと言えよう。 真理の概念をめぐって 多面的・重層的に 歩みを進めるガダマーの思索の跡を、 ディ…

イデオロギーが死に、戦争と革命は生きのびている

「これまで、 戦争と革命が 二十世紀の様相をかたちづくってきた。 事件がいろいろと起ったのは、 レーニンのかつての予言を、 ただ大急ぎで実現するためだった かのようである。 たしかに民族主義と国際主義、 資本主義と帝国主義、 社会主義と共産主義のよ…

エミール・クレペリン/分裂病と躁うつ病/二大精神病

「<内因性の神話>とは、 いってみれば、 分裂病とよばれる症状は 遺伝的素質にもとづき、 なんらかの 大脳の器質的変化のために発現してくる、 という仮説である。 この仮説は、 エミール・クレペリンが 十九世紀末に、 分裂病と躁うつ病を 内因性の二大精…

カント、勤労のあとの休息を語る

「疑う余地のない 純粋の喜悦のひとつは、 勤労のあとの休息である。」 イマニュエル・カント---------------------------------- ♪いま聴いている曲はコレ♪ 間テクスト性について知りたい方はコチラ マンガも偏って読んでます。 『ジョジョの奇妙な冒険』 …

宣伝はすべて大衆的であるべきであり、

「宣伝はすべて 大衆的であるべきであり、 その知的水準は、 宣伝が目ざすべきものの中で 最低級のものがわかる程度に 調整すべきである。」 アドルフ・ヒトラー 『わが闘争』 (平野一郎・将積茂訳)

「シーザーを理解するためには、シーザーである必要はない」

「しばしば言われてきたように、「シーザーを理解するためには、シーザーである必要はない」。そうでなければ、あらゆる歴史記述は無意味であろう。」マックス・ウェーバー 『理解社会学のカテゴリー』 〜テクスト礼讃〜 http://fiderio.blog68.fc2.com/blog…

我々は生成と前進のあらゆる現象の総体を歴史として受け止めている

「静止の中で変化しているもの、 継続の中で変転するものは連続である。 その連続の中で以前から存在するものが 新たな展開を遂げ、 後から来るものによって補足される…… 我々は生成と前進のあらゆる現象の総体を 歴史として受け止めている。」ヨハン・グス…

「シーザーを理解するためには、シーザーである必要はない」

「しばしば言われてきたように、「シーザーを理解するためには、シーザーである必要はない」。そうでなければ、あらゆる歴史記述は無意味であろう。」ウェーバー 『理解社会学のカテゴリー』 〜テクスト礼讃〜 http://fiderio.blog68.fc2.com/blog-category-…

神は汝の中にあり。

「神を雲のかなたに求めるなかれ、神は汝の中にあり。」ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ 〜テクスト礼讃〜 http://fiderio.blog68.fc2.com/blog-category-143.html

人間は宗教の起点〜終点

「人間は宗教の起点であり、宗教の中点であり、また宗教の終点である。」フォイエルバッハ 〜テクスト礼讃〜 http://fiderio.blog68.fc2.com/blog-category-143.html

ヘーゲルの場合、集中する出来事はフランス革命

「ヘーゲルの場合、哲学の全使命がひたすら集中していく出来事は、フランス革命である。しかもヘーゲル哲学のようにフランス革命の問題を中心的な核としている哲学は他に1つもない」ヨアヒム・リッターテクスト礼讃 通信簿 購読 ↑そのままメール送れば、メ…

ヘーゲル この歴史から解放されようとしている

「ヘーゲルは(この時代が)形式としての自然に社会を基礎づけ、この自然のなかで到来の歴史に対抗して社会が独立となり、この歴史から解放されようとしていることを把握している。この社会の歴史喪失的本性(自然)がその歴史的本質なのである。このことを最初…

この論文は表題それじたいからして奇妙で謎めいたものにみえるかもしれない。

「この論文は表題それじたいからして奇妙で謎めいたものにみえるかもしれない。ヘーゲルの現象学を精神分析と対比して論じるなどということは、すべての歴史法則と時間の不可逆性の原理を侵すようにも思われよう。」 ジャン・イポリット(田中昭光訳)「ヘーゲ…

そんなにすぐれた特殊性とはいえないものなんじゃないかと、ぼくは思いますね。

「そう、講壇哲学。だから、カントからフィヒテが出てきて、フィヒテからシェリング、シェリングからヘーゲルが出てくるという筋道は、たしかにふつうに哲学史でやるように論理的な問題の展開として追いかけることはできるわけです。…ああいう形はまことにド…

いわばひとつの偏見から出発するもの

「注釈は、価値評価とはいささかちがう。価値評価は、いやがうえにも慎重に明暗を光と影に分けてゆくものだが、注釈はそれとはちがって、対象とするテキストを古典とみなすところから、したがっていわばひとつの偏見から出発するものであり、また、テキスト…

マルクスは 叙述した

「マルクスが資本主義生産様式の分析を企てたとき、この生産様式は初期の段階にあった。マルクスは、その研究が予測的な価値をもつように、研究を構成している。かれは資本主義的生産様式の基本的な諸関係に遡った上で、そこからの既決として、資本主義がそ…

証拠は、もう存在しない

「私が作家であったという証拠は、もう存在しない」 フランツ・カフカ 1924年没 原稿と手紙を全部燃やすように頼んでライアン・マッケイ&クリス・メイナード監修(伴田良輔訳)『世にも奇妙な遺言集』ブルース・インターアクションズ 2005

精神は自然の知となる。ヘーゲル

「世界史において、自然と精神とがたんに即自的にのみひとつの本質存在だということが止揚される。精神は自然の知となる。」 フリードリヒ・ヘーゲル「国家体制論」(座小田豊・山崎純訳)末尾

形而上学の内部にしか存在しない。

「隠喩的なものは、形而上学の内部にしか存在しない。」 マルチン・ハイデガー デリダが『余白』(豊崎光一訳)集英社版『世界の文学38−現代評論集』p.438

本質的な思想家は一つ

「本質的な思想家は一つの課題しかもたない。」 マルチン・ハイデガー

ベンヤミンの考える廃品 歴史のイメージ

「現実をもっとも目だたずに定着しているもののなかに、いわば現実の廃品のなかに、歴史のイメージをしっかりととらえる試み」 ベンヤミン 1935.8.9付けショーレム宛書簡

アドルノの考える廃品

「アウシュヴィッツ以後のあらゆる文化は、そのさしせまった批判ともども廃物(ミユル)である」 テオドール・アドルノ『否定的弁証法』第三部第二章