そして道の終りに橋を作つた



 
「まことに羅馬人は、むしろ築造橋の延長としての道をもつてゐた。彼らは荒野の中に道を作つた人々とであつたが、日本の旅人は山野の道を歩いた。道を自然の中のものとした。そして道の終りに橋を作つた。はしは道の終りでもあつた。しかし日本の言葉で、はしとは端末を意味するか中介としての専ら舟を意味するかは、かつてから何人かの人々の間で云ひ争はれてきた主題であつた。橋も箸も梯も、すべてはしであるが、はしを平面の上のゆききとし又同時に上下のゆききとすることはさして妥協うの説ではない。しかもゆききの手段となれば、それらを抽象してものの終末にはしのてだてを考へることも何もいぢけた中間説ではない。」 
 
「日本の橋」
「 『保田與重郎全集第四巻」 』講談社 p.13