いちばん非科学的な物の見方が詩である。不可能が可能に見えるのが詩なのだ。

「僕は「文學界」九月号の座談会で、詩は滅びるということをいった。それについて、詩人たちが抗議しないのは怪しからんといって慣慨している人もあるし、詩が滅びるのなら、小説も滅びるわけではないかという人もあるので、ちょっと僕の考えをここで説明しでおく。詩というものは、科学と正反対なものだ。いちばん非科学的な物の見方が詩である。ワーズワースの詩に、子供の時は、星が木の梢のすぐ上に見えた。手が届きそうに見えたという。あの気持なのだ。が、科学は、星が千何万光年の彼方にあることを教えている。不可能が可能に見えるのが詩なのだ。しかし、それは結局は幻覚なのだ。不可能を可能だと考え、それに到達しようとして努力することが、ロマンチック精神だ。しかし、科学は、不可能と可能の限界をはっきりと示してくれた。我々は、詩もロマンスも感ぜられなくなったのである。不可能と可能との限界の分からない、少し頭の中に、もやもやのある人だけにしか、詩は残っていないのだ。感覚や感情の遊戯、あれは詩ではない。詠嘆や感傷なども、あれは詩
ではない。詩は、無際限の理想への人間のあこがれだったのだ。ところが、そんな理想は、
どこにも無くなったのである。現在あるものは、詩(ポエトリー)の空しき遺骸である韻(パース)だけである。小説は、科学的なものである。自然主義の小説は科学と一致した。科学的精神から来る人生の解剖であり、新発見であって、いっこう差し支えないのである。」

菊池寛
「話の屑籠・昭和十一年」
十一年十一月