中味がなにも無い時期


「まだ遊び自体が生活なのだという自在さも持てず、兄や姉に遊びに引きまわされもせず、日頃いそがしそうに動きまわっている母親も稀に針つくろいをしている。この稀な年齢と時間がわたしには「軒遊び」に当たるような気がする。生涯のうちこんな時が無かったら、と良きにつけ悪しきにつけ、誰でも思い起こす時があるにちがいない。わたしにとってこの時期が最初の「それ」であった。意味
をつけようにもつけようがない。中味がなにも無いからだ。でもこれが無かったら人間の生涯は発達心理学のいう意味だらけになってしまう。ほんとうをいえば、幼児期の内働きの主役であった母親の授乳と排泄から学童期にいたる間に、とくに「軒遊び」の時期を設定してみせた柳田国男の考え方は、たんに民俗学や人類学の概念の基礎を与えただけではない。存在論の倫理としていえば、母親によ
る保育とやがて学童期の優勝劣敗の世界への入り口の中間に弱肉強食に馴染まない世界が可能かも知れないことを暗示しようとしているともいえる。そして誰もが意識するか無意識であるかは別として、この中間をもつことは人間力の特性につながっていると思える。」

吉本隆明
「幼年論」の「まえがき」から