能楽の世界

妙とは ″たへなり″

「妙とは ″たへなり″ となり。 ″たへなり″と云は、 かたちなき姿也。 かたちなき所、 妙体也。」世阿弥 『花鏡』妙所之事Amazon最安値でセンスの光る古本屋【ふぃでりお書店】を出店中です。【 概念・時間・言説―ヘーゲル“知の体系”改訂の試み (叢書・ウニベ…

世阿弥『風姿花伝』「四十より能力は下るべし。」えぇッ!

「もし極めずば、 四十より 能力は下るべし。 それ、 後の證據なるべし。 さるほどに、 上るは三十四五までの比、 下るは四十以来なり。 返すゞ、 この比、 天下の許されを得ずば、 能を極めたりと(は) 思ふべからず。」世阿弥 『風姿花伝』(野上豊一郎・…

やがて、花の失するをも知らず。

「されば、 時分の花を 誠の花と知る心が、 眞実の花に なほ遠ざかる心なり。 ただ、 人ごとに、 この時分の花に迷ひて、 やがて、 花の失するをも知らず。 初心と申すは この比の事なり。」世阿弥『風姿花伝』(野上豊一郎・西尾実校訂)岩波文庫 p.17 1958…

シテ方、ワキ方、狂言方、囃方そのすべてを能役者

「能舞台は ふつう六メートル四方の 本舞台の四隅に 柱を立てて屋根を懸け、 これにアト座・地謡座・橋掛りを付けた構造だ。 この上にシテ方(シテ、シテツレ、子方、地謡)、 ワキ方(ワキ、ワキツレ)、 狂言方(アイ)、 囃方(笛、小鼓、大鼓、太鼓)な…

室町時代前期を生きた世阿弥元清。

「室町時代前期 を生きた世阿弥元清。 彼の死から 五百数十年後の 今日なお、 一年じゅうをつうじて 日本じゅうの何処かの能楽堂で、 さまざまの能が演じつづけられ、 観られつづけている。 私たち生者の生が現在形であり、 死者の死が現在形であることによ…

「なんとかにて候」と言えば話が通じるわけです。

「江戸時代、 徳川幕府が能を 式楽と定めました。 では、 なぜ能を武士に習わせようとしたのかというと、 当然、 精神的なものもあるでしょうが、 言葉使いを学ばせたかったのです。 今、 これだけメディアが発達して、 標準語のテレビ番組を 見ているにもか…

説明なしで強い印象を与える日本の伝統的芸術

「ヨーロッパや アメリカの知的な人びとに、 説明なしで強い印象を与える 日本の伝統的芸術が、 すくなくとも二つある。 一つは能で、 もう一つは俳句だ・・・・ パリと東京を 二つの軸足にして 国際的に活躍している 私の親しい 韓国人画家の意見だ。」高岡…

初心

「初心忘るべからず」世阿弥元清 〜テクスト礼讃〜 http://fiderio.blog68.fc2.com/blog-category-143.html ソーシャルブックマークはこちら その他ブックマークに追加 Diggに追加 Bloglinesに追加 DRECOMに追加 niftyクリップに追加 pookmarkに追加 pingkin…

武蔵坊弁慶による勧進帳聴聞セリフ

「大恩今日主の秋の月は、涅槃の雲に隠れ、生死長夜の永き夢、驚かすべき人もなし。爰に中頃帝おはします。御名を聖武皇帝と申し奉る。最愛の夫人に別れ、恋慕の情やみ難く、涕泣眼に荒く、涙玉を貫ね乾くいとまなし。故に上求菩提の為、盧遮那仏を建立し給…

無心の位にて、

「無心の位にて、我心をわれにも隠す安心にて」 世阿弥『花鏡』

能ではあるていど型を固定する必要があります。

「ただ「型を変更する」という、現代演劇にはスッとあてはまる概念そのものが、能楽にはそのままあてはめにくいのかもしれません。能ではあるていど型を固定する必要があります。」梅若猶彦『能楽への招待』岩波新書 p.50 2003-----------------------------…

無心の位にて、

「無心の位にて、我心をわれにも隠す安心にて」 世阿弥『花鏡』

能楽にはそれぞれの家に伝わる秘伝書が存在

「能楽にはそれぞれの家に伝わる秘伝書が存在します。「型附」がそれで、振付を記録した秘伝書です。 あるていどまとまった最古の型附は、観世元忠(一五○九〜八三)が編集した「宗節仕舞付」だといわれています。」 梅若猶彦『能楽への招待』岩波新書 p.120 2…

鐘の内部は、主役をつとめる者がつくることになって

「鐘の内部は、主役をつとめる者がつくることになっています。それは『道成寺』が、習物でも奥伝という部類に属する秘曲であり、鐘の内部も秘密になっているためです。」 梅若猶彦『能楽への招待』岩波新書 2003 p.p.28

能楽は歌舞伎とは異なり、

「能楽は歌舞伎とは異なり、一ヶ月連続公演というものはありません。能楽は古今をつうじて一期一会を守り、一回限りの公演を原則としています。」 梅若猶彦『能楽への招待』岩波新書 p.85 2003

能舞台の空間のもつ「何もなさ」の度合は桁はずれ

「…能舞台はどうでしょう。能舞台の空間のもつ「何もなさ」の度合は桁はずれであり、この場合の「必要なもの」と「必要ないもの」との人為的な調合である空間設定は、ふつう言われている演劇に必要なものをすべてなくしてしまいました。」 梅若猶彦『能楽へ…

能楽には「型」と呼ばれるものがあります。「型」とは、

「能楽には「型」と呼ばれるものがあります。「型」とは、身体の動きを記録するための表記上の単位です。ようするに、舞台上でおこなわれる振付に相当するものを「型」と呼んでいます。型にはそれぞれ名称があります。 カマエ、ハコビ、後ヘ下ル、左右、中左…

世阿弥は、その芸術論を見るかぎり、型への信仰は皆無

「世阿弥は、その芸術論を見るかぎり、型への信仰は皆無であるとさえ思います。世阿弥の最高の美である「妙花」は「形なき姿」でした。それは型への信仰がなかったことを暗示しています。」 梅若猶彦『能楽への招待』岩波新書 p.94 2003

動きを学習する必要上、動きを再生産するシステムを考え

「昔の芸能者が専門性を増すにつれて、修練によって身体の動きを学習する必要上、動きを再生産するシステムを考えなければなりませんでした。そのもっともてっとり早い方法が、動きに「名前をつける作業」でした。」 梅若猶彦『能楽への招待』岩波新書 p.96 …

鏡板に描かれた松は能舞台の永遠の背景としてある「老松」

「舞台の背景に見える松の絵が描かれた板を、鏡板といいます。この鏡板に描かれた松は能舞台の永遠の背景としてある「老松」です。…もともと奈良の春日大社の「影向の松」と呼ばれていた実在する松を模したのがはじまりとされています。…どのような曲であろ…

躰ハソル心

「躰ハソル心 両眼ヲフサグ」 梅若家『習物重習型附』