◇◆批評の書き方<1>書き出し◆◇

内田百間氏は夏目先生の門下にして僕の尊敬する先輩なり。

◆◇芥川龍之介の他の小説の冒頭書き出しはココ◆◇「内田百間氏は 夏目先生の門下にして僕の尊敬する先輩なり。 文章に長じ、兼ねて志田流の琴に長ず。 著書「冥途」一巻、 他人の廡下に立たざる特色あり。 然れども不幸にも出版後、 直に震災に遭へるが為に普…

クロオド・フアレエルの作品を始めて日本に紹介したのは多分堀口大学氏であらう。

◆◇芥川龍之介の他の小説の冒頭書き出しはココ◆◇「クロオド・フアレエルの作品を 始めて日本に紹介したのは多分堀口大学氏であらう。 僕はもう六七年前に「三田文学」の為に 同氏の訳した「キツネ」艦の話を覚えてゐる。 「キツネ」艦の話は勿論《もちろん》…

何でも秋の夜更けだつた。僕は岩野泡鳴氏と一しよに、

◆◇芥川龍之介の他の小説の冒頭書き出しはココ◆◇「何でも秋の夜更けだつた。 僕は岩野泡鳴氏と一しよに、 巣鴨行の電車に乗つてゐた。 泡鳴氏は昂然と洋傘の柄にマントの肘をかけて、 例の如く声高に西洋草花の栽培法だの 氏が自得の健胃法だのをいろいろ僕に…

暴力批判論の課題は、暴力と、法および正義との関係

「暴力批判論の課題は、 暴力と、法および正義との関係を えがくことだ、といってよいだろう。 というのは、 ほとんど不断に作用している ひとつの動因が、 暴力としての含みを持つにいたるのは、 それが倫理的な諸関係のなかへ 介入するときであり、 この諸…

「批評」という言葉は、明治十四年

「初出用例主義にこだわるつもりはないが 「批評」という言葉は、 明治十四年(一八八一)、 井上哲次郎の監修にかかる『哲学字彙』が 「クリティシズム」の訳語として定着させたと見てよいようである。」 野口武彦「煩悶、高揚、そして悲哀」冒頭柄谷行人編『…

こんな批評文を拵える人

「谷崎潤一郎が太平洋戦争を中に挟んで足掛け七年の歳月を費して完成したという「細雪」について、下巻が去年の暮れに上梓されるに及んで、ぼつぼつその批評があちらこちらに散見されるようになつた。」 淺見淵「「細雪」の世界」冒頭

西洋ではこの文學形式がどういう性質を帯び…小説とは何であるか。

「ここで私は小説の歴史を書くつもりではないので、ただ西洋ではこの文學形式がどういう性質を帯びて発達しているか、その斷面を少し見たいと思うのみである。小説とは何であるか。この問いに簡明に答えられると最も都合がいい。」 生島遼一『西洋の小説と日…

ホメロスによれば、日の神ヘリオスの娘キルケの魔術にかかり、

「ホメロスによれば、日の神ヘリオスの娘キルケの魔術にかかり、オデュッセウスの兵隊らは、或る日、突然、豚のむれに変化してしまったということだが、思うに、こういう奇蹟は、いまでも我々の身辺で屡々起り、必ずしも妄誕の説として、しりぞけ難い。」 花…

ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』の書き出し

「マルクスが資本主義生産様式の分析を企てたとき、この生産様式は初期の段階にあった。マルクスは、その研究が予測的な価値をもつように、研究を構成している。かれは資本主義的生産様式の基本的な諸関係に遡った上で、そこからの既決として、資本主義がそ…

ヴェルサイユ条約が寸裂焼却され…北一輝

「日本の東方には今ワシントン会議なる名においてヴェルサイユ条約が寸裂焼却されんとする国際的大舞台の回転が轟き始めた。」 北一輝『支那革命外史』序 冒頭

かねがね、わたしは海野小太郎幸長の伝記をかいてみたいと思っていた

「かねがね、わたしは海野小太郎幸長の伝記をかいてみたいと思っていた。ことわっておくが、「幸長」であって、「行長」ではない。」 花田清輝「小説平家」冒頭

かねがね、わたしは海野小太郎幸長の伝記をかいてみたいと思っていた

「かねがね、わたしは海野小太郎幸長の伝記をかいてみたいと思っていた。ことわっておくが、「幸長」であって、「行長」ではない。」 花田清輝「小説平家」冒頭

ウィトゲンシュタインは、言葉に関して「教える」

「ウィトゲンシュタインは、言葉に関して「教える」という視点から考察しようとした。これは、はじめてではないとしても、画期的な態度の変更である。子供に言葉を教えること、あるいは外国人に言葉を教えること。いいかえれば、私の言葉をまったく知らない…

大江健三郎の『懐かしい年への手紙』を読んで、私は

「大江健三郎の『懐かしい年への手紙』を読んで、私はローレンス・ダレルの『アレクサンドリア・カルテット』を思い出した。そこで、第一部は、「私」という小説家の語り手によって書かれ、第二部は、その小説を「私」が反省してあらためて書きなおすという…

ソシュールは「話す主体」から出発するという。

「ソシュールは「話す主体」から出発するという。しかし、それは、実際は「聴く主体」である。あるいは、デリダのいい方でいえば、自分が話すのを聞く主体である。ソシュールの言語学は、したがってまた構造主義は、結局現象学的な独我論に内属せざるをえな…

ひとりの思想家について論じるということは、その作品について

「ひとりの思想家について論じるということは、その作品について論じることである。これは自明の事柄のようにみえるが、必ずしもそうではない。」 柄谷行人「マルクスその可能性の中心」冒頭

大江健三郎の作品には、処女作以来固有名がない。

「大江健三郎の作品には、処女作以来固有名がない。固有名がないというのがいいすぎだとしたら、人物たちの名はタイプ名であるといってよい。」 柄谷行人「大江健三郎のアレゴリー−『万延元年のフットボール』」冒頭

昭和という言葉、あるいは昭和という時代にかんする言説が突然氾濫

「昭和という言葉、あるいは昭和という時代にかんする言説が突然氾濫しはじめたのは、一九八七年夏、天皇の病気が伝えられたときであった。一九八九年初めに「昭和」は終わった。」 柄谷行人「一九七○年=昭和四十五年−近代日本の言説空間」冒頭

ロマン・ロランの名は私には無限に人間的なものの生きた象徴として見える。

「ロマン・ロランの名は私には無限に人間的なものの生きた象徴として見える。七・八年このかた私は常に此の象徴を生活から離さない。」 片山敏彦『限りなく人間的なるもの』冒頭

『源氏物語』の五十四章が、私の五十四の日々を埋めつくした。

「一九四三年の夏は私にとつて一連の輝かしい祝祭だつた。『源氏物語』の五十四章が、私の五十四の日々を埋めつくした。日本文學史上最大のロマンが、生き難い生に對して、生きる理由を與へてくれた。」 中村眞一郎『『源氏物語』−ひとつの顔』冒頭

日本でバルザックに親炙したものがあつたらうか。

「誰か日本で、フローベールに心酔するやうに、ドストエフスキーに憑かれるやうに、深くバルザックに親炙したものがあつたらうか。僕はここから自分の問ひをはじめる。」 寺田透『バルザック斷章』冒頭

プロスペロが魔法の杖を一振りする。するとこの世界が一變する。

「プロスペロが魔法の杖を一振りする。するとこの世界が一變する。人々は叫ばないではゐられない。「何といふ莊嚴な幻像。魅するやうな調和の音楽。これは精靈らの爲す業なのか?」(『嵐』第四幕第一場)」 中村眞一郎『嵐−夢の構想力について』冒頭

一人の詩人が偉大であるといわれる時、その偉大さというものがどういう點

「いつたい一人の詩人が偉大であるといわれる時、その偉大さというものがどういう點を指していうのか、それは決して明瞭ではないと思うのです。」 深瀬基寛『エリオットの新しさについて』冒頭

フィクションという言葉は虚構だとか假構だとか、

「フィクションという言葉は虚構だとか假構だとか、色々な尤もらしい意味を持つことになつているが、フィクティシャスという形容詞が贋ものを指してしか用いられないのから考えても、フィクションが結局は嘘ということの範圍を出ないものであることが解る。」…

八月十五日のことから語ろうと思う。

「八月十五日のことから語ろうと思う。二十一年前、一九四五年の八月十五日、その日のことについて、一人の作家は次のように述べている。」 小田実「平和の倫理と論理」冒頭

私は御覽の通り委員の中で一人軍服を着して居ります。

「私は御覽の通り委員の中で一人軍服を着して居ります。で此席へは個人として出て居りまするけれども、陸軍省の方の意見も聽取つて參つて居りますから、或場合には其事を添へて申さうと思ひます。最初に假名遣《かなづかひ》と云ふものはどんなものだと私は…

誰も知つた信州姨捨山の話の外に伊豆にも

「誰も知つた信州姨捨山の話の外に伊豆にも棄老傳説があると云ふのは(郷土研究三の二四三)棄てられた老人には氣の毒だが、史乘に見えぬ古俗を研究する人々には有益だ。」 南方熊楠『棄老傳説に就て』

僕は氏の所論の全部に反對ではないといふことです。

「廣津和郎氏がさきごろ本紙に寄せたカミュの「異邦人」についての感想に對して、何か批評を書くやうにといふことですが、まづはつきり言つておきたいのは、僕は氏の所論の全部に反對ではないといふことです。」 中村光夫「異邦人論」冒頭

できるだけ具體的に考えて見たいと思ひます。

「いまの日本の文學に缺けてゐて、しかも文學には本来あるべきいろいろな要素について、できるだけ具體的に考えて見たいと思ひます。」 中村光夫「二十世紀の小説」冒頭

二十年後に日本文學がまだあるかどうかといふことを、先づ考へた方がいいかも知れない

「二十年後に日本文學がまだあるかどうかといふことを、先づ考へた方がいいかも知れない。併し友達と来週の金曜日に、「はち巻岡田」で飲まうと約束する場合にも、もしそれまで二人とも生きてゐればといふ絛件が付いてゐる譯で、どつちか、或は二人とも死ね…