日本の文化と藝文の思想はつねに開花であつた。

「日本の文化と藝文の思想はつねに開花であつた。花の思想−が天平より元禄の上方文人の頃までは、一つの系譜として発見される。月花の弄びではなく、観月であり、開花であつた。我々の思想では藝文は開花であり、魔術であり、奇跡であつた。日本の花の思想に於て、僕らは王朝の末期に後鳥羽院が當代の俊成、西行を通して撰ばれた一つの卓越した系譜を知つている。即ち飛鳥浄見原の朝、人麻呂を空前絶後の大詩人として始める系譜である。近世の芭蕉はこの血統を確証し、蕪村は芭蕉に於ける確証を感じた。「貫通するものは一也」と語つて西鶴の徒を批判した。世阿弥、光悦、宗達と継がれ、秋成、真淵と傅つた。」

保田與重郎
「開花の思想」
保田與重郎全集第四巻』p.311

伝統の美学なるものからあざむかれ、敗戦によって一挙にほうりだされた

「わたしはかつて戦争期に、天皇(制)から、神話から、伝統の美学なるものからあざむかれ、敗戦によって一挙にほうりだされた体験をもった。しかし、このあざむかれかたには一定の根拠がなかったわけではない。その根拠のひとつは、天皇(制)が共同祭儀の司祭としての権威をつうじて、間接的に政治的国家を統御することを本質的な方法とし、けっして直接的に政治的国家の統御にのりださなかったことの意味を巧くとらえることができなかったことである。またべつの根拠は、天皇(制)の成立以前の政治的な統治形態が、歴史的に実在した時期があったことをみぬけなかったことである。」

吉本隆明
天皇および天皇制について」1969.10
「戦後日本思想体系5国家の思想」筑摩書房に掲載
「詩的乾坤」1974.9.10国文社に収録

作品にならない言葉を、酒の酔いや幻覚など一切かりずに綴りつづける

「批評のいちばんの悩み、口にするのが恥かしいためひそかに握りしめている悩みは、作品になることを永久に禁じられていることだ。(略)作品には骨格や脊髄とおなじように肉体や雰囲気がいるのに、作品を論じながらじぶんを作品にしてしまうのは、それ自体が背理としてしか実現されない。批評が批評として終りをまっとうすることは作品にならない言葉を、酒の酔いや幻覚など一切かりずに綴りつづけることを意味する。近代批評は、やっとひとりの批評家をのぞいて終りをまっとうしていない。」

吉本隆明『悲劇の解読』序より
ちくま文庫、1985

アジアは光(薄明と闇のゆえに存在する)と魂をもつていた

「近代のものなるヨーロッパは理知と精神をもち、アメリカは物質と実用をもち、アジアは光(薄明と闇のゆえに存在する)と魂をもつていた。ヨーロッパに於いては動物と人間との交流と区別が説かれ、アメリカに於て機械と群衆との交錯がとかれるやうに、アジアは古来より人間と植物との変貌関係を考えた。ヨーロッパ文化が征服の文明である如く、アジアの文化は開花の文化である。」

保田與重郎
「芸術としての戦争」
保田與重郎全集第四巻』講談社 p.76

真淵のやうに、芭蕉のやうに、定家のやうに、後鳥羽院に於けるやうに


「日本の古典は僕らが語るごとくに露骨に語るものでない、真淵のやうに、芭蕉のやうに、定家のやうに、後鳥羽院に於けるやうに、ひそかに心から心に通わせるものである。」

保田與重郎
「方法と決意」
保田與重郎全集第四巻』講談社 p.58

なんだ、偉そうに股を開いて、ーこつちは窮屈で困つてゐるのだ



 
「(なんだ、偉そうに股を開いて、ーこつちは窮屈で困つてゐるのだ。もう少し遠慮したらどんなものか。)腹立ちを言葉にすると、さうなる。それが軈て、かうなつてきた。(なんだ、この土人め、土人の癖して偉さうに股を開いて、ー土人らしく、日本人に対しては、もう少し遠慮したらどんなものか!)」 
『諸民族』新潮社 1942

日本と云うものは、つねに「世界文化のための」というまえおきを書くことを強いられている

「東洋的とか、一般に東洋といふ事が何ら我々の間でも世界歴史の観点からは鮮明にされていない。それは日本といつてもいい、その日本が現代には大方鮮明にされていないのである。東洋の遠征とか、東洋の求道とか、東洋の生理とか、東洋の交通路とか、一般に東洋のもつていた世界文化と芸術と哲学について、我々はその場所も地位も知らない。今日僕らの知る東洋は十九世紀以後のものなるヨーロッパ精神の説いたものにすぎないのである。(略)今日東洋と云い日本と云うものは、つねに「世界文化のための」というまえおきを書くことを強いられている。」

保田與重郎
「方法と決意」
保田與重郎全集第四巻』講談社 p.51-52