2007-10-01から1ヶ月間の記事一覧

彼われを殺すとも

「彼われを殺すとも我は彼に依頼まん」 ヨブ記 第13章第15節ホルヘ・ルイス・ボルヘス「ドイツ鎮魂曲」に引用

わたしは捜しもとめている

「わたしは捜しもとめている 創世前にわたしが持っていた顔を」 W.B.イェイツ『螺旋階段』ホルヘ・ルイス・ボルヘス「タデオ・イシドロ・クルスの生涯(1829-1874)」 に引用

仕事を追え

「仕事を追え、仕事に追われるな」 ベンジャミン・フランクリン

精神というのは不離の関係

「甲野 ― 武術における精神というのは、精妙な身体運用の法を研究していくうちに、不離の関係としておのずと身についてくるものであって、精神とか根性のほうから身体に入っていくというのは話が逆なんだと思います。」 養老孟士・甲野善紀『古武術の発見』…

壺や剣や玉のみによって論ずる

「…歴史学者は、考古学の成果をもって歴史叙述に代えたのである。かつて神々の坐っていた場所に、壺や、剣や、玉が、ぎょうぎょうしげに坐りはじめたのである。あたかも、そういう壺や剣や玉の研究によって、上代史の歴史の秘密がすべてとかれるかのように。…

日本人はいかにして

「日本人はいかにして渡って来たかといふ題目」 柳田國男『海上の道』

筋肉や神経のあいだを体液が

「柳田国男の文体は、筋肉や神経のあいだを体液がぬってゆくような文体だ。この文体がひたすら村里の共同の習俗にそそぎこまれ、流れはじめる。外部がない内視だけにみえるが、ほんとうは外視の記述をじぶんに封じているだけなのだ。」 吉本隆明「柳田国男論…

言わんでもわかるだろう

「書きしるしていく柳田国男の文章も、それを読んでひきこまれてゆくわたし(たち)の方も、ほら、あらたまって言わんでもわかるだろうといった内証ごとの世界にはいった感じで、〈読むもの〉と〈読まれるもの〉の関係にはいっている。いわばかれの方法も文体…

体液の流れみたいな文体

「体液の流れみたいな柳田国男の文体を読みすすんでゆくと、きっとあるところまできて、既視現象にであった気分にさそわれる。」 吉本隆明「柳田国男論」序にかえて

地に充ちた呪いとうらみ

「荒ぶる神は 西の地から来た 黒い呪いの蛇を全身にまとい 触れるすべてのものを焼き尽くしながら 闇から闇へとやって来た 山の古い神が 人に討たれ 森を奪われたのだ 大いなる猪の形をした神は 骨を砕かれ 肉は腐り 傷の痛みと怒りに狂い 山を谷を走りに走…

「話の場」というのが大変重要な要素

「佐藤 [……]口承文芸という分野では、話の筋立てに興味が集中しているんですね。だから話されている状況、「話の場」というのかな、そこを切り捨ててしまう傾向が強い。たとえば中学生を集めてきて、生徒一人一人を話者と考え、昆虫採集のように話を聞き出…

根っこの部分には、前代の文化的伝統が秘められている

民俗学は「私たちの身近な出来事をうみだしている根っこの部分には、前代の文化的伝統が秘められているにちがいない、それが民俗文化の一つの核を形成しているはずだという前提」がある。 宮田登『怖さはどこからくるのか』筑摩書房1991,p36

民族の心意の中に間歇的にもせよ永遠に生き続ける

「民俗学の対象である民族の普遍の心意といったものに非常に近いものであることがわかる。折口の言う「古代」は、民族の心意の中に間歇的にもせよ永遠に生き続けるあるものであり、その意味で歴史を超えた存在だったのである。」 『折口信夫事典』

古事記を先とすべし

「道をしらんためには、殊に古事記を先とすべし、まづ神典は、旧事紀、古事記、日本紀を昔より、三部の本書といひて、其中に世の学者の学ぶところ、日本紀をむねとし、次に旧事紀は、聖徳太子の御撰として、これを用ひて、古事記をば、さのみたふとまず、深…

歴史を知るとは、己を知ることだ

「過去の経験を回想によって我が物にする、歴史家の精神の反省的な働きは、人間経験の多様性を、どこまで己の内部に再生して、これを味わうことができるか、自分の能力を試してみるという事だろう。…(中略)…歴史を知るとは、己を知ることだという、このよ…

証言、証拠のただ受け身

「証言、証拠のただ受け身な整理が、歴史研究の風を装っているのは、ごく普通のことだ。そういう研究者達の心中の空白ほど、宣長の心から遠いものは無い。」 小林秀雄『本居宣長』

しこたま抱え込んだ補助概念の整理

「研究者達は、作品感受の門を、素早く潜ってしまえば、あとは作品理解のための、歴史学的社会学的心理学的等々の、しこたま抱え込んだ補助概念の整理という別の出口から出て行ってしまう。それを思ってみると、言ってみれば、詞花を玩ぶ感受の門から入り、…

妖怪変化、ファントムの存在

「妖怪変化、ファントムの存在をみんなが信じている。ケルト民族は幻視家である」 W.B.イエイツ『ケルト妖精物語』

堕落した天使だ

「妖精というのは堕落した天使だとアイルランドでは信じられている」W.B.イエイツ『ケルト妖精物語』

妖恠はなき事なりとて、

「儒者と云人も、又一僻になりて、妖恠はなき事なりとて、翁が幽霊物語したを、終りて後に恥かしめられし也」 上田秋成『胆大小心録』

霊は永久にこの国土のうちに留まつて

「私がこの本の中で力を入れて説きたいと思ふ一つの点は、日本人の死後の観念、即ち霊は永久にこの国土のうちに留まつて、さう遠方へは行つてしまはないといふ信仰が、恐らくは世の始めから、少なくとも今日まで、可なり根強くまだ持ち続けられて居るといふ…

「かくり世」は私と貴方との間にも充満して居る

「時として幽冥を談ぜられた事がある、然し意味の深い簡単な言葉であつたから私には遂に了解し得られなかつた。「かくり世」は私と貴方との間にも充満して居る、独りで居ても卑しい事は出来ぬなどと折々云はれた。」 柳田國男「萩坪翁追懐」

その感化はうけた。

「どういう修養をされたのかわからないが、平田学以来の霊魂の存在を信じる所謂幽冥道を信じていられた。一人だと思って変なことをしたり、二人丈だと思って変な話をしたりすることは出来ないと云われていた。私は幽冥道を信じてはいなかったが、その感化は…

いつまでも此国に居たい

「出来るものならば、いつまでも此国に居たい。さうして一つの文化のもう少し美しく開展し、一つの学問のもう少し世の中に寄与するやうになることを、どこかささやかな丘の上からでも、見守って居たいものだと思ふ。」 柳田國男「魂の行くへ」

その魂の行方は、

「さもあらば、此国土の人の死にて、その魂の行方は、何処ぞと云ふに、常磐にこの国土に居ること、古伝の趣と、今の現の事実とを考へわたして、明かに知らるれども」 平田篤胤『霊の真柱』

歴史学や考古学はほとんど無力

「他界の研究は、いかなる文書記録も、また遺物や遺跡にも頼ることが できない。つまり歴史学や考古学はほとんど無力である。ただ頼りにな るのは、庶民の中に残っている古い伝承と、それにまつわる言葉である。しかし他界は、古代人が「根の国」「本つ国」…

隠れた現実の方が遥かに物深い

「我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遥かに物深い」 柳田國男『山の人生』

『いかに生活し来たったか』

「『平民はいかに生活するか』または『いかに生活し来たったか』を記述して世論の前提を確実にするものがこれまでなかった。それを『郷土研究』が遣るのです。たとい何々学の定義には合わずとも、たぶん後代これを定義にする新しい学問がこの日本に起こるこ…

縁が分からぬ。

「今日の科学、因果は分かるが(中略)縁が分からぬ。この縁を研究するが、われわれの任なり。しかして、縁は因果と因果の錯雑して生ずるものなれば、諸因果総体の一層上の因果を求むるがわれわれの任なり」 南方熊楠 明治36年8月8日付け書簡

ただただ林野を歩んで、

「ただただ林野を歩んで、実物を採りまた観察し、学校の図書館にのみつめきって図書を写し抄す」 南方熊楠「履歴書」