橋川文三

「しかし、決定的な文学的衝撃は中学三年の夏休、森鴎外の『即興詩人』を読んだ時に来た。それは正に人生そのものへの開眼であった。私は呆然として、数日間は白昼夢を見ている心地だった。人生と世界が、一ぺんにその情景をかえたというか、限りなく美しい世界のイメージと、人間の心のあわれな深さというものが、はじめて眼の前にあらわれたというべきであろうか。私はなんだか生きているのが厭になったように感じた。こういう時、昔の人は出家をしたのかもしれない。その時私は薄倖の佳人アヌンチャタのために、一生を巡礼して送ろうかと思いつめていたにちがいない。
橋川文三「戦中の読書」