ジュリア・クリステヴァ

記号学の問題の一つは、旧来の修辞学的なジャンル区分をテクストの類型学で置き換えることにある。言い換えれば、テクストのさまざまな組織を、これら組織の一部をなしていると同時に、これら組織も今度は逆にその一部になってもいる一般的テクスト(文化)の中に鋳千都受けることによって、それら組織の特性を定義することにあろう。所与のテクスト組織(記号論的実践)と、もろもろの言表(要素連続)との交差を、イデオロギー素と呼んでもよかろう。ちなみに、所与のテクスト組織はその空間の中に諸々の言表を消化吸収したり、あるいは、外部の諸テクスト(記号論的実践)の空間の中で諸々の言表を参照したりする。イデオロギー素とは、相互テクスト的 [間テクスト的] 機能なのであって(この機能の“具体化された姿”は各テクストの構造のさまざまなレヴェルにおいて読みとれる)、また、そういう機能は各テクストの全行程に及んでおり、それぞれのテクストに各自の歴史的・社会的座標を授けているのである。この場合、分析の後で行う説明的=解釈的なやい方は問題にならない。したがって、あらかじめ“言語学的”所産として“既知”のものを、“イデオロギー的”所産として“説明する”ようなことはしない。あるテクストを一つのイデオロギー素として受け入れるならば、記号学の方法自体も定まる。すなわち、記号学はテクストをテクスト間相互関連性 [間テクスト性] として研究するのであるから、それを社会および歴史(という各テクスト)のなかで考究することになる。一テクストのイデオロギー素は炉のようなものである。このなかで、認識力に富む理性は、もろもろの言表(テクストをこれらに還元することは不可能である)が一つの総体(テクスト)へ変換するという事実や、同じく、歴史的・社会的テクストの中へのこの総体性のさまざまな組み込まれ方をも把握するのである。」
ジュリア・クリステヴァ『テクストとしての小説』pp.18-19