蓮実重彦

「それを博学と呼ぶには彼の知識はあまりに貧弱であったし、


ましてや言語学的な卓見を誇りうるほど


事情に通じていたわけでもないのに、一人の男が、あるとき、


不意に辞書の編纂という途方もない計画を思いたち、


知人や親しい仲間たちに向って、その構想をぽつりぽつりと


洩らしはじめる。そんな身のほど知らずの着想を無理にも


思いとどまらせる友人がひとりもいなかったところをみると、


誰も、その完成を本気で信じてなどいなかったのだろう。


事実、辞典編纂の知識も経験もないこの無謀な男は、


その構想を実現させる以前に死ななければならなかった。


彼の死は、いまからほぼ百年ほど前のできごとである。


したがって、この辞典によって言葉や概念の定義を学ぼうとしたものは、


過去一世紀を通じて世界にひとりもいない。


実際、完成されもしなかった辞典など、


どうして参照することができるのか。」

蓮実重彦『物語批判序説』第1部冒頭

クリックください♪

FC2ブログランキング