精緻に〈読む〉ことがそれだけでなにごとかであるような現在の哲学と批評の状況

「知的な資料をとりあつめ、傍におき、読みに読みこむ作業は〈考えること〉をたすけるだろうか。さかさまに、どんな資料や先だつ思考にもたよらず、素手のまんまで〈考えること〉の姿勢にはいったばあい〈考えること〉は貧弱になるのではないか。わたしたちは現在、いつも〈考えること〉をまえにしてこの岐路にたたずむ。そして情報がおおいため後者の方法にたえられずに、たくさんの知的な資料と先立つ思考の成果をできるだけ手もとにひきよせて〈考えること〉に出立する。いや、これでさえ格好をつけたいいぐさかもしれない。すでに知的な資料や先立つ思考の成果を〈読む〉ことだけが〈考えること〉を意味する段階に(段階というものがあるとして)
はいってしまったのではないだろうか。それ以外に〈考えること〉などありえないことになったのでは。ほんとはいつもこの危惧をどこかでいだいているのだ。眼のまえにおこる生々しい出来ごとにであいながら、その場で感じたことを〈考える〉とか、現実におこった事件について〈考える〉ことが〈考えること〉の主役だった時代は、過ぎてしまった。そうでなければ眼のまえにおこっている生々しい出来ごとでさえ、書物のように紙の上に間接に記録して、それを読んで出来ごとを了解しているのではないか。精緻に〈読む〉ことがそれだけでなにごとかであるような現在の哲学と批評の状況は、この事態を物語っている。このなにかの転倒は、すでに現在というおおきな事件の象徴だとおもえる。」

吉本隆明
『言葉からの触手』河出文庫 p.82-84