日本では訓読の分析がそのまま精神分析となりうる。

「日本においては、


文という装置、


訓読というプログラムをめぐる、


もっぱら言語的な分析が


そのまま


精神分析となりうる。


その可能性を



暗に示唆していたのは、


他でもない


ラカンである。」

山城むつみ
「文学のプログラム」冒頭書き出し