幸いにも「変な奴」はいない。

「−私はS町で円タクを捨てると、覚悟を決め、市電に乗った。
成るべく隅の方へ腰を下ろして、膝の上に両手を置いた。それから気付かれないように電車の中を一通り見渡してみた。幸いにも「変な奴」はいない。私の隣りでは銀行員らしい洋服が「東京朝日」を読んでいた。見ると、その第二面の中段に「倉田工業の赤い分子検挙」という見出しのあるのに気付いた。何べんも眼をやったが本文は読めなかった。−それにしても、電車というものののろさを私は初めて感じた。それは居ても立ってもいられない気持だ。」
小林多喜二『党生活者』(遺作)