子供等は、みんなと一緒に生活して行く為には、先ず俺達が死ぬのが自然であろうと思っている。


「斯る話を聞き斯る処を見て来て後之を人に語りたがらざる者果してありや。其様な沈黙にして且つ慎み深き人は少なくも自分の友人の中にはある事なし」と言う。明らかに問題は、話の真偽にではなく、その齎す感動にある。伝説の豊かな表現力が、人の心を根柢(こんてい)から動かすところに、語られる内容の鮮やかな像が、目前に描き出される。柳田さんが言いたいのは、そういう意味合の事なのです。
さて、炭焼きの話(※『山の人生』『故郷七十年』で紹介されたエピソード)だが、柳田さんが深く心を動かされたのは、子供等の行為に違いあるまいが、この行為は、一体何を語っているのだろう。こんなにひもじいなら、いっその事死んでしまえというような簡単な事ではあるまい。彼等は、父親の苦労を日頃痛感していた筈である。自分達が死ねば、阿爺もきっと楽になるだろう。それにしても
、そういう烈しい感情が、どうして何の無理もなく、全く平静で慎重に、斧を磨ぐという行為となって現れたのか。しかし、そういう事をいくら言ってみても仕方がないのである。何故かというと、ここには、仔細らしい心理的説明などを、一切拒絶している何かがあるからです。柳田さんは、それをよく感じている。先きに引用した文でおわかりのように、柳田さんは、余計な口は、一と言も利いていない。
この「山の人生」の話は、「故郷七十年」で、又繰返されているが、その思い切って簡潔な表現は、少しも変っていないのです。「小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末のことであったという」という全く同じ文句が繰返されている。読んでいると、何度くり返しても、その味わいを尽す事は出来ない、と言われているような感じがして来ます。夕日は、斧を磨ぐ子供等のうちに入り込み、確
かに彼等の心と融け合っている。そういう心の持ち方しか出来なかった、遠い昔の人の心から、感動は伝わって来るようだ。それを私達が感受し、これに心を動かされているなら、私達は、それと気附かないが、心の奥底に、古人の心を、現に持っているという事にならないか。そうとしか考えようがないのではなかろうか。先ず、そういう心に動かされて、これを信じなければ、柳田さんの学問は出
発出来なかった。これは確かな事です。民俗学の、柳田さん自身もうまく行かなかった定義など、少くともここでは、どうでもよろしいのです。
炭焼きの子供等の行為は、確信に満ちた、断乎たるものであって、子供染みた気紛れなど何処にも現れてはいない。それでいて、緊張した風もなければ、気負った様子も見せてはいない。純真に、率直に、われ知らず行っているような、その趣が、私達を驚かす。機械的な行為と発作的な感情との分裂の意識などに悩んでいるような現代の「平地人」を、もし彼等が我れに還るなら、「戦慄せしめる」
に足るものが、話の背後に覗いている。子供等は、みんなと一緒に生活して行く為には、先ず俺達が死ぬのが自然であろうと思っている。自然人の共同生活のうちで、幾万年の間磨かれて本能化したそのような智慧がなければ、人類はどうなったろう。生き永らえて来られただろうか。そんな事まで感じられると言ったら、誇張になるだろうか。

小林秀雄
柳田國男著『山の人生』について」
小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること』

小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること』(新潮社、2004年)