『哲学』は全く失敗であった。余の演繹的な『東洋的』の思考は、厳密なる帰納的方法とは全く相容れなかつた

「『哲学』は全く失敗であった。余の演繹的な『東洋的』の思考は、知覚作用、概念作用といふが如き、厳密なる帰納的方法とは全く相容れなかつた。余には斯くの如きものは凡て何等区別を必要とせざる自明の事実であり、或は哲学者が暇潰しの為に論じたる同一の事に対する異なつた名称であると考へられた。『真理』の確証の為には理論より見ることに頼ることより多き我等『東洋人』には、余が新英洲カレッジにて教へられしが如き『哲学』は我等の疑惑と霊的幻影を一掃するには割合に効果が少なかつたのである。ユニテリアン其の他知的傾向を有する宣教師は、『東洋人』は知的の民であるが故に、知的に『基督教』に回心せしめられなければならぬと考へた。併し彼等ほど大なる誤謬を犯した者はなかつたと余は信ずる。我々は詩人であつて、科学者ではない。三段論法の迷路は我等が依つて以て『真理』に到達するの途ではない。猶太人は『黙示』の連続によりて真の『神を知るの知識』に達したと謂ふ。余は信ずる、凡ての亜細亜人は斯くの如しと」

内村鑑三
『余は如何にして基督信徒となりし乎』p.184-185