うすら寒さを感じられない「在日」についての本, 2012/1/11

【姜 尚中『在日』レビュー】

わたしは「在日」のについてのイメージを壊したかった、と著者は語る。

半島の分断、感覚の分断、在日の境遇、ドイツの分断、社会主義と民主主義の分
断などは、大学で
教鞭をとる著者の専門領域と相まってそれなりに描かれてはいる。ただし、敗戦
国であるドイツの
分断を歴史の「報復」とし、一方、朝鮮の分断は痛ましいものと規定はするが、
ドイツへの愛情
あふれる筆遣いと、筆者の土俵たる日本とでは全く違う視線が向けられる。

「在日」という「仕切られた壁を壊す」という高らかな宣言とは裏腹に、読者と
想定されたであろう
大多数の日本人に「壁」がどんなものであるかを一向に示されることはない。

確かに「オモニ」をはじめ「在日」のただなかで生きた人間たちの描写には迫る
ものがある。
しかしながら、朝鮮半島と在日だけに限られた窮屈な世界に生きる「在日」の姿
はその文章からは
終いまで感じることができなかった。

イードのアマチュア論を持ち出し、父母を日本でのアマチュアとみなす著者自
身であるが、
明らかに日本におけるプロと呼べる存在である(プロフェッサーだけに!)。

同胞なのか、彼岸の存在なのか、宙釣りにされたまま、いかにも家庭円満な現在
が描かれるかと思うと、
壮絶な母親の姿を描き出すその筆致に読者はたびたび置いてけぼりを食わされ
る。自分の周りの
「在日」のさまざまな局面を説明しつつも、一線を越えた犯罪者(としての「在
日」)とも、
にわか成金(としての「在日」)とも別の存在として自分の姿をひたすら描くこ
とに読者がついていけないのだ。

それほどまでに入り組んだ存在、仮にそれが「在日」ということであったとする
ならば、
今の若い世代の人々にどこまでその悲惨さを説明することができるだろうか。生
きた歴史の上で
大なり小なり「在日」の有様をつぶさに見てきた世代とは明らかに違う世代に、
これまでの共通認識としての
「在日」とその「悲惨さ」はどのように映っているかをはたして著者はあらかじ
め想定しただろうか。

われわれのような、一般人が「在日」を感じる瞬間。今ではせいぜい夜の歓楽街
でその手のチンピラと
イザコザを起こした時に感じる程度ではないか。そこには、野生の動物と対峙し
た時に感じるうすら寒さ、
抜身の真剣を手にした時のような背筋の寒さはあまり感じることはできない。

背筋を覆うその寒さは「在日」を生きた世代全体の雰囲気として確かに存在した
が、いまや理解することすら
困難になってきた。理由は連日報道される朝鮮半島の情勢。植物のつるが太陽を
目指すように経済発展を
謳歌する韓国と、水を求めて地を這い続ける北朝鮮。また、報道を含むメディア
に反する若い世代の
嫌韓流」傾向。朝鮮半島に対する見方自体がここ数年で大きく動いているのは
事実だ。

この本についての本格的な書評の存在を私は知らないが、いくつかのレビューに
みられるのは、自らが
日本で手に入れた地位で存分に「知的」に振る舞う著者へのやっかみだけのよう
に思われる。
読後にとり残されたように感じる若い読者ができることは、ただそれだけだった
のだ。

多様な世界を語ることが許されない「在日」という存在。

押し付けられたアイデンティティーに縛られてきた「在日」と差別の論理を押し
つけた側の日本、
「在日」を考えることはその両者をともにひっくるめて考えることであって、
「在日」するすべての者たちを
冷静に、時間をかけて、決して忘れることなく考察し続けることなのではないか。

その考察のための一資料として将来的に提出されうる資格を持つ本書ではある
が、ともあれ、
これまでの「在日」の構図を超え出るような新しい意見を述べるものではない。