私も読んでいて眼に清水の沁み込むのを覚えた。
大菩薩峠について
「私があの中で一番好きなのは竜之介の殺人剣を表面へ現わさずに、
雰囲気を以って出しているところ、たとえば甲府の辻斬のくだりで、
霧の深い夜に米友が出会う場面、塩尻峠の三人の武士との立ち廻りで、
その立ち廻りを描かずに峠の茶屋へ逃げ込んだ人々の恐怖を描き、
仏頂寺弥助と重傷を負わされた侍との会話を叙し、と草原をひとりさまよう
竜之介の風貌を述べているあたり、その前であったか、
宇津木兵馬が狼に喰い殺された賊の屍骸に刃物の痕を認めるところ、
こういうところはいわゆる「大衆文芸」だったら、きっと表面へ出さずには
措かない場面だが、それを悉く裏へ廻して、かえって凄味を添えている
手際は隅に置けない。それから白骨温泉へ移って、竜之介の眼病が癒ゆるが如く
癒えざるが如く、じめじめとした、湿気た冷たさが骨身に沁みる。
これに配するに無邪気で若いお雪ちゃんを以てしているのは常套手段であるけれども、
コントラストとして或る程度まで成功している。竜之介が独り山道を歩きながら、
路端に湧き出る清水で眼を拭う一節、あすこは圧巻であると思った。
私も読んでいて眼に清水の沁み込むのを覚えた。」
谷崎潤一郎
「饒舌録」
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