第三第四の菩薩と自分が無限に連続する不思議な体験

「曽我はある時、阿弥陀仏の木像の前で念仏をしていると、眼前の木像が消えて菩薩があらわれ、その菩薩を拝んでいる自分の後ろにも第二の菩薩があらわれ、それを拝んでいる第二の自分があり、さらに第三、第四の菩薩と自分があり、それが無限に連続しているという不思議な体験をした。曽我はこの経験をふまえて、仏教が「衆生」のすべてを仏とするという誓いをもった宗教であることに関して、つぎのように解釈した。仏教でいう「衆生」の認識とは、単に沢山の人が存在しているということではなく、自分のなかに過去現在未来と無限の生命が流れているということではないか、と。
禅宗において老師というなは、覚った人ということだが、その老師は、この曽我の神秘的な経験について、菩薩が次々と登場するといった神秘的な部分には意味がないから無視するようにといったあとで、大切なことは、衆生を我がことと自覚したことが重要なのだと述べた。」

阿満利麿
『日本人はなぜ無宗教なのか』ちくま新書 1996 p.188