その水を見ると、まるで墨のように真黒だ。

「又しばらく行くと、大きい川があった。その水を見ると、まるで墨のように真黒だ。怪しい水の色かなと思って「どうして、こんな色をしているのか。」と訊くと、「知らないのか、これこそ、お前が書いた法華経の水が流れているのだ。」と、云う。「どうしてか。」と、云って聴くと、「心の真を致して清く書き奉ったお経は、すぐ王宮に収められるが、お前がしたように、心きたなく、身汚らわしく書いたお経は、そのまま広き野原に捨てられるのだ。だからその墨が雨に打たれて、かく川に流れて来るのだ。この川の水は、お前の書いたお経の墨である。」と云うのだった。」

菊地寛
「心形問答」『新今昔物語』文春文庫 p.47-48
1988