諸外国はこの問題を日本全体との紛争と見なす

「二月四日(陰暦一月十一日)早朝から備前(岡山)藩兵が神戸を通過してゆくのを見たが、午後二時頃、ある家老の行列が一名のアメリカ水兵を射撃した。その水兵は、行列のすぐ前方を横切ろうとしたのである。この発砲につづいて、かれらは出逢った外国人をひとりのこらず殺害しようとしたが、幸いにも大事にいたらなかった。かれらは居留地の奥の端を通る道をすすんでいたが、いっせいに射撃を開始したのである。かれらが使っていたのは元込め銃だったと思う。外国人が、平地をころげるように逃げてゆくのが見えた。
アメリ海兵隊員は、ただちに追撃を開始した。イギリスの護衛兵も集合を命じられ、若干のフランス水兵も上陸した。ブルースの指揮するイギリス護衛兵の半数は、神戸から居留地に通じる入り口の守備を命じられ、のこりの半数は追撃に加わった。生田川まで来ると、約六百ないし七百ヤード前方を敵が密集した縦隊で進んでゆくのが見えたので、堤の切れ目を突破し、約七百ヤードの距離で射撃を開始した。われわれの側には、すくなくとも六名のライフル銃を持った非戦闘員がいたが、かれらも発砲した。われわれの最初の一斉射撃で敵は方向を転じ、畠に駆け込み、堤の下からわれわれ目掛けて撃ってきた。これにもう一度反撃を加えると、敵はいっせいに逃げ出した。これを追撃し、時折逃げそこなった敵を見つけると発砲しながら進んだが、かれらは丘陵地帯に逃げこみ、ついにその姿を完全に見失ってしまった。
サー・ハリー(パークス)は馬を飛ばして、西宮へ通じる道をかなり進んだのであるが、敵の姿を見つけることができなかった。われわれは捕虜をひとりつかまえた。情けない恰好をした人足で、命が助かったのが奇跡といってよかった。というのは、この男が隠れていた場所から這い出してきたとき、すくなくとも十五発の弾丸がかれを目掛けて発射されたからである。敗走した敵が落としていった荷物を壊してあけてみると、火繩銃と榴弾砲との合の子のような三丁の小さな武器と、大工道具が出てきた。のちに捕虜の口からわかったのは、池田伊勢と日置帯刀という二名の家老が約四百名の兵をつれて、西宮の守備に向う途中であったこと、まだ多少の備前兵が兵庫にのこっていることであった。居留地にもどってみると、ブルースの指揮するイギリス護衛兵に阻止された敵の落としていった荷物がたくさんあった。その中に大森信輔という男の机があって、中から娼婦とおぼしきコトザワなる女性からの手紙が出てきた。神戸の本通りに沿って、第一の柵門まで歩哨が立ち、門の
ところには榴弾砲を備えた協力な警備隊が配置されていた。さらに居留地の北側と東側とを取り囲んで、歩哨線が布かれていた。
わたしはサー・ハリー(パークス)に、もし備前(岡山)側がかれらの行動を納得のゆくかたちで釈明しないならば、諸外国はこの問題を日本全体との紛争と見なす、という趣旨の声明を出すことをすすめた。かれが他の公使たちの同意をとりつけたので、わたしはこの声明の写しをもたせて、捕虜を備前側に追いかえした。それが目指す相手方に無事にととどくかどうか、あまり自信はなかったのであるが。
(中略)兵庫と神戸で、筑前、久留米、宇和島、それに大君側とおぼしき計四隻の汽船を拿捕したが、これは物的保証を確保するためである。」

アーネスト・サトウ
大政奉還 遠い崖ーアーネスト・サトウ日記』