殆ど登城詰切りの有様にて是に至り終に西宮出馬

「四日朝八時漸く出発の告知あり、主公は上述の如く客蝋三十日の夜以来正月四日に至る迄殆ど登城詰切りの有様にて是に至り終に西宮出馬のことなり、晩六時出発の命下る、物頭兼普請奉行丹羽勘右衛門、物頭角田与左衛門、同御牧勘兵衛各銃卒一隊を引率し、瀧源六郎(追記善三郎の兄)其他の士と共に野戦砲六門を管理し、濱田弥左衛門御徒士頭として徒士組十六名を引率し、津田孫兵衛は士頭として士組二十名を引率し、吉田渡組頭を勤め、御牧安之丞引廻しとなり、次に主公、次に君側の士二十六人(追記先考は此中に在り)旗鼓弓槍式の如く整粛に出陣」

岡八郎正言
『瀧善三郎正信自裁之記』