バフチンはこう答えた!

「話し手は、無垢のまだ名付けられていないものだけを扱い、それらに初めて名称を与えるあの、バイブルに現われるアダムではない。……実際、発話はどれもそれ自身の主題の他に、何らかの形で先行する他者の発話に常に反応(この語の広い意味において)している。話し手はアダムではない。それゆえ彼の陳述の主体そのものは、どうしても必ず、彼の意見が相手の意見(何か日常の出来事についての会話とか議論で)とか他の視点、世界観、趨勢、理論等(文化交流の領域)と出逢う競技場になってしまう。世界観、趨勢、視点、そして見解は、常に言葉で表現される。これは全て他者の陳述(個人の形式、あるいは非個人の形式の)てあり、発話に反映されるわけにはいかない。発話は、その対象に向けてだけではなく、その対象についての他者の陳述に向けても発せられるのだ。」
ミハイル・バフチン 1986 pp.93-94