臍の下まで切り裂いて、満足と勇気をおぼえた

「中尉は右手でそのまま引き廻そうとしたが、刃先は腸にからまり、ともすると刀は柔らかい弾力で押し出されて来て、両手で刃を腹の奥深く押さえつけながら、引き廻して行かねばならぬのを知った。引き廻した。思ったほど切れない。中尉は右手に全身の力をこめて引いた。三四寸切れた。
 苦痛は腹の奥から徐々にひろがって、腹全体が鳴り響いているようになった。それは乱打される鐘のようで、自分のつく呼吸の一息一息、自分の打つ脈搏の一打ち毎に、苦痛が千の鐘を一度に鳴らすかのように、彼の存在を押しゆるがした。中尉はもう呻きを抑えることができなくなった。しかし、ふと見ると、刃がすでに臍の下まで切り裂いているのを見て、満足と勇気をおぼえた。
 血は次第に図に乗って、傷口から脈打つように迸った。前の畳は血しぶきに赤く濡れ、カーキいろのズボンの襞からは溜った血が畳に落ちた。ついに麗子の白無垢の膝に、一滴の血が遠く小鳥のように飛んで届いた。」
三島由紀夫憂国