熊谷孝

「ところで、『右大臣実朝』ですが、この作品の創造に際して鴎外や井伏の歴史小説に学ぶところが太宰にあったのではないか、と私は申しましたが、証拠は何一つないのです。私に確実に言えることは、戦中の歴史小説ブームですね、そのブームのモニュメントになるような幾つかの作品、何冊かの単行本が今、私の書架に並んでいますが、同じ歴史小説と呼ばれながら、『右大臣実朝』という作品はそのどれ一つともつながりを持っていない、ということです。藤村の『夜明け前』、榊山潤の『歴史』、橋本英吉の『系図』その他その他。さらに、さかのぼって、たとえば菊池寛の『忠直卿行状記』のような新現実派の歴史小説などともつながりを見つけることはできません。この作品がつながるのは、やはり、いま言ったような意味で鴎外であり井伏の作品であるということなのです。
 で、学ぶとか学んだということを、意識的な摂取という意味に限定して考えるとすると、あるいは事実に反するかもしれません。しらずしらず影響されて、今では血肉化している、と言ったらいいのかもしれません。が、何ですか私は、しらずしらず といったものじゃない、という気がなぜかどうしてもするのです。」
熊谷孝『増補版・太宰治――「右大臣実朝」試論』1987年p.262-269〕