南部修太郎

「芸術の出発点をより多く自己の体験内容に置く作家に対してより多く自己の智識内容に置く作家がある。それは各の素質、境遇に依つて必然に二つの傾向に分れるのだと思ふが、前者はその人間が直接人生に触れてゐると云ふ意味に於て表現が比較的手易く真に、或は自然に迫り得る強味がある。後者はその人間が間接に、云ひ換へれば、其処に智識が介在して人生に触れると云ふ意味に於て表現が真に、或は自然に迫るべく比較的困難である。云ふまでもなく、芥川氏はその後者である。即ち、氏は例へば、「戯作三昧」の如きに於て自己の体験を間接に取材化してはゐるが、現在までの処その直接に取材化された作品は全然無いと云つても好い。云ふならば、氏の作品の取材の殆どすべては、その智識内容から得られてゐる。然し、氏はその明智の働きと、これは氏に於ては天分的と云つても好い優れた表現の技巧に依つて、その智識から得られた取材の多くを十分真に、或は自然に表現し得てゐる。而も、なほ大体に於て、氏の芸術には出発点を智識内容に置く弱味が感じられる。即ち、氏は拵への極致に達し得た作家であるにしても、その作品の多くには露骨に、乃至は幽かに拵へものの影が差してゐるのである。」
南部修太郎「現代作家に対する批判と要求
――全人間的な体現を――(その一、芥川龍之介氏)」「新潮」新潮社1921(大正10)年6月号