東浩紀
「…フーコーが指摘しかけたように、近代の人文系言説はセクシャリティに過剰な「主体的」意味を付与しすぎなのだと思う。マゾヒズムやサディズム、フェティシズムのような複雑な心的機制をともなったセクシャリティばかりが注目されてきた…」東浩紀『批評の…
「ドゥルーズが『記号と事件』で、ガタリの言った新しい権力の話を紹介していますね。固定されたゾーニングではなく、市民ひとりひとりがIDカードをもっていて、あるときは目的地のドアが開くが別のときには開かない、そういう「普遍的な転調」を行う権力の…
「…ジジェクの固有名論は、ブランド論やイデオロギー論とまったく同じ論理で構築されている。コークはCoke is it! だからいい、スターリンはスターリンだからいい、その同語反復以外いかなる理由もない。そして、その理由の不在がまさに理由になる。」 東浩…
「デリダがラカン批判のなかで練りあげた超越論的シニフィアンの論理が、実は一九九〇年代前半の日本社会では、サブカルチャーにおいてそのまま実現していた。」 東浩紀『批評の精神分析』p.66
「メタ物語、さらにメタメタ物語へとたえずメタ方向に生成される超越の志向がすべて格納される=されてしまう場所としての「データベース」というのは、まさに僕が「過視的」という言葉で言いたいことでした。」 東浩紀「虚構から動物へ」中の発言 東浩紀『批…
「過剰流動性の下では、現象の同一性ではなく、データベースの同一性を参照する以外に、システムと環境の関係を安定させるやりかたが存在しないからです」宮台真司「データベース的動物の時代」における発言 東浩紀『批評の精神分析』講談社 2007 p.12
「テクストはつねに完結せず、開かれている。これはクリステヴァやエーコを参照するまでもなくありふれた認識だが、デリダが優れているのは、[…]彼がそれをネットワークの不完全性の問題から考えた点にある。そこではテクストの「開放性」は間テクスト空間…