昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい、いづれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやつて来るだらう。

宮本武蔵の独行道のなかの一條に「我事に於て後悔せず」といふ言葉がある。菊池寛さんは、よほどこの言葉がお好きだつたらしく、人から揮毫を請はれるとよくこれを書いてをられた。菊池さんは、いつも「我れ事」と書いてをられたが、私は「我が事」と読む方がよろしいのだらうと思つている。それは兎も角、これは勿論一つのパラドックスでありまして、自分はつねに慎重に正しく行動して来たから、世人の様に後悔などはせぬといふ様な浅薄な意味ではない。今日の言葉で申せば、自己批判だとか自己清算だとかいふものは、皆嘘の皮であると、武蔵は言つているのだ。そんな方法では、真に自己を知る事は出来ない、さういふ小賢しい方法は、寧ろ自己欺瞞に導かれる道だと言へよう、さういふ意味合いがあると私は思ふ。昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい、いづれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやつて来るだらう。その日その日が自己批判に暮れる様な道を何処までも歩いても、批判する主体の姿に出会ふ事はない。別な道がきっとあるのだ、自分といふ本体に
出会う道があるのだ。後悔などといふお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、
さういふ確信を武蔵は語つているのである。」

小林秀雄
「私の人生観」
『無私の精神』文藝春秋 1967 p.25-26