私にはKがその刹那に居直強盗のごとく感ぜられたのです。

「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」私は二度同じ言葉を繰り返しました。そうして、その言葉がKの上にどう影響するかを見詰めていました。
「馬鹿だ」とやがてKが答えました。「僕は馬鹿だ」Kはぴたりとそこへ立ち留まったまま動きません。彼は地面の上を見詰めています。私は思わずぎょっとしました。私にはKがその刹那に居直強盗のごとく感ぜられたのです。しかしそれにしては彼の声がいかにも力に乏しいという事に気が付きました。私は彼の眼遣を参考にしたかったのですが、彼は最後まで私の顔を見ないのです。そうして、徐々とまた歩き出しました。」

夏目漱石
『こころ』 四十二