「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」

「「さきほど先生のいわれた、人間は誰でもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれはどういう意味ですか」「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ」「事実で差支えありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。一体どんな場合を指すのですか」先生は笑い出した。あたかも時機の過ぎた今、もう熱心に説明する張合いがないといった風に。「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」私には先生の返事があまりに平凡過ぎて詰らなかった。先生が調子に乗らないごとく、私も拍子抜けの気味であった。私は澄ましてさっさと歩き出した。いきおい先生は少し後れがちになった。先生はあとから「おいおい」と声を掛けた。「そら見たまえ」「何をですか」「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」待ち合わせるために振り向いて立ち留まった私の顔を見て、先生はこういった。」

夏目漱石『こころ』上 先生と私、二十九