2012-10-01から1ヶ月間の記事一覧

精緻に〈読む〉ことがそれだけでなにごとかであるような現在の哲学と批評の状況

「知的な資料をとりあつめ、傍におき、読みに読みこむ作業は〈考えること〉をたすけるだろうか。さかさまに、どんな資料や先だつ思考にもたよらず、素手のまんまで〈考えること〉の姿勢にはいったばあい〈考えること〉は貧弱になるのではないか。わたしたち…

起源からやってくる人間の反復・霧散・逼迫の連続体

「書物。それは紙のうえに印刷された文字の集積体でもなければ、ある著作者の観念の系譜が、言葉にあらわされたものでもない。それは表側の視線からみると、起源からやってくる人間の反復・霧散・逼迫の連続体であり、裏側の視線からみると、週末から逆に照…

書物のそれぞれの頁は、他の書物の他の頁と異種または同種交配できる

「現在というものの病理は、どうやって形成され、どんな伝播の特質をもっているのか。それをわりだすのは難しい。ただ理路としていうだけなら、系統的にそれを位置づけるのはできないことはない。それぞれの書物のそれぞれの頁は、じぶん以外の他の書物の他…

沈黙は、精神が空腹、飢餓、断食の状態にあること

「沈黙ははんたいに、精神が空腹、飢餓、断食の状態にあることだといえる。その状態に耐えられなくなったとき、わたしたちはひとりでにしゃべったり、書いたりするのだ。」吉本隆明 『言葉からの触手』河出文庫 p.25-26

言葉をしゃべったり、書いたりするのは、精神が喰べてることだ

「おなじく精神、いいかえれば普遍性にまで拡張された感覚器官にも、食物は必要だ。精神にとっての食物、つまり言語。言葉をしゃべったり、書いたりするのは、精神が喰べてることだ。」 吉本隆明 『言葉からの触手』河出文庫 p.25

内村鑑三は目の人ではなく、耳の人であるといえよう

「ルードルフ・カスナーが、ライナー・マリア・リールケを耳の人ではなく、眼の人であるといったのは逆に、かれは目の人ではなく、耳の人であるといえよう。はじめに私は、かれはシャウアーであるといったが、それは分析的な視力ではなく、唯一点に集中し、…

かれはディアレクティカーではなくシャウアーであった

「かれの思考は、このように直観的演繹的であった。かれは真理を見ることによって知る。この点で、かれはたしかに東洋的であり、科学主義的ではなく詩人的であり、ディアレクティカーではなくシャウアーであった。しかし、かれの信仰においては、それはたん…

「信じること」と「信じていると思うこと」との本質的相違

「人が教えているキリスト教は、いまだかれの心に体験され、実験されてはいない。パスカルは「信じること」と「信じていると思うこと」との本質的相違を強調しているが、かれはこの点に関して、じつに本質的であった。」森有正 『内村鑑三』講談社学術文庫 p…